おしいれ

誰が要求したわけでもない義務感と少しの憂さ晴らしをこめて・・

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千葉でサンマ祭り

昨日、千葉に住む柴田さん(万年豊作祭り以来の知人)宅に行く。
台湾から来ていたシェンルーの送迎会(彼女は翌日帰って行った)としてサンマ祭りを開くというのでそれに誘われて行ったのだ。

どの人もひさしぶりに会ったが、気持ちよく挨拶することができる。象関係で出会った人々とはいつもこのような感じで気分が良い。彼らは遊びが好きで、しかし意外とまじめな人が結構多く、彼らとの会話はいつも笑いが多いのだが、かなり有意義な話が多い。だから面白い。

柴田さんは象設計集団で設計活動を三年ほど行った後、千葉は富津市の「和光保育園」で保育士として今年の春から働き始めた。彼女のこの独特の経歴の積み方は、そのまま彼女の、空間とは設計だけで創られるものではなく、使用することはそれと同等かそれ以上に意味を有するものであるという視点を表すものでもある。

その彼女が働いている和光保育園を今回見学させて頂いたのだが、園内で見られるいくつかの知恵を感じさせる発明は非常に好奇心がくすぐられるもので、私は気がつくと走りながらそれらを写真に撮って回っていた。

その一つが「ツヅキ」と書かれた小さな標識である。これは子供達ががらくたで遊んだ後に使うもので、これをつけることによって子供達はまだ遊びが終っていないことを示し、それが示されていれば、その遊びを継続する事ができ、がらくたを片付けることをしなくてよいのだ。私はこの発明を見てとても納得させられた。こどもの遊びが一日で終るなんて誰が決めた?という主張が強く伝わってくる。

またその他には、扉をロックするための引っかかり棒である。子供達のクラスは年齢によって分けられており、クラスルームはその棒を備えた扉で仕切られている。そしてこの棒の偉いところは、扉の場所によってその差し込み位置の高さが違うところだ。この棒のおかげで上のクラスのものは下のクラスに移動する事ができる、あるいは大人は入れるが、子供は入る事ができないなどの適切な制御が生み出されているのだ。

これらの発明は、子供に対する注意深い観察がなければ到底思いつくものではないだろう。この保育園の教育者達の「こどもになにかを教えるのではなく、こどもに考えさせる、こどもから教えてもらう」という姿勢は非常に優れているものであると思う。保育のすばらしい技術を垣間見た気がした。

さてこれらの感動的な使用者達のデザインに対して、私は思う。果たして設計の立場でこれを行う事ができるのか?
この問いの根底にあるものは、一つにはこういった知恵のあるデザインは「使用者による観察」がまず必要である事。私が思うには、知恵とは、具体的な事物に衝突したときに、それに柔軟に対応しようとする姿勢が生むものであるので、具体的な事物を前にしない設計士(マテリアルには触れる事はできるが)が、そういった事物に具体的に関わる事ができるのかに対して疑問をもつのである。そしてそういったことを考えていない設計士がほとんどである。象設計はそれを、「自力建設」という手法を用いて自分たちのデザインに取り入れようとしてきたように思う。今考えれば、かれらの使うこの方法(もともとは結い、ユイマールなどと言われ我々の伝統的な知恵としてあったもの)はまさに使用者に関わるものであったのだと思えたのだ。

今はまだこれらのことが自分の将来像とどう関わるかはまだ具体的でないが、重要な観点であると思っている。私は街を使用する、街の建築家(仮)になりたいのだ。

時間はとても短い。
  1. 2009/09/22(火) 22:06:40|
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夜の雲

住宅街を通っての家路は、もう慣れたもので、私はほとんどなにも意識をせずに帰っている。

そんな風に、いつものように塀と家の間を帰って行くのだが、途中駐車場として使われている場所があり、その場所の視界は空に向って開かれていた。その駐車場の空を無数の雲が、どんどん流れて行き、私はそれにしばらく見とれていた。

雲は大きいものもあれば小さいものもある。それらはどんどんと流れて行く最中に、曲がったり、ちぎれたり、繋がったり、伸びたりと姿を変えていった。大きなうさぎが、こっちを振り向いたネコに代わり、またそれが何かを掴もうとする巨人の手に変わり、ペンを掴んでいる手に変わり・・と私の思いを半分に映す。

想像力について最近はよく考える。
それは人間が本来的に持つものかと思っていたのだが、夜の雲を見ていると、その能力さえも、自然から人間が学び取ったものかとも思えた。
  1. 2009/07/30(木) 00:31:49|
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無題

ぼくは彼女といっしょに遊園地へ行った。遊園地の中にはホテルがあり、僕たちは彼女の部屋に似た一室を借りた。
僕たちは毎日その部屋で遊んだ。そこは遊園地の中なのでとても楽しかったからだ。

ある日、僕がその部屋を少しの間出て、帰ってくると彼女がいなくなっていた。
部屋を間違えたのかと思ったが、彼女の荷物のようなものがある。
しかしその荷物も彼女がいないとそれが彼女のものであるかどうかもよくわからない。

そして僕は彼女はもうこの部屋を出たのだと思い、僕もその部屋を出る事にした。



気がつくと僕は次の場所にいた、通りの真ん中を歩いていた。
ふと立ち止まり、前のあのホテルの一室を出た日の事を思い出した。
ほんとうに彼女はあの部屋を出たのだろうか、ほんとうは行き違いで戻ってきたのではないだろうか。

結局それは、今となってはわからないままで、僕はまた通りを歩き出した。
  1. 2009/07/11(土) 09:08:07|
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いまごろ

彼女がずっと言い続けてたことが、今頃になって実感を伴って理解される。
遅すぎたか、いやまだ間に合うはずだ!

ずっと甘えたかっただけなんだね。
僕はそれを自分で理解しようとしてたけど、君はその意味も十分に言ってたね。
僕は本当は話を聞いてなかったんだね。
  1. 2009/05/28(木) 09:16:47|
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わからない 

気持ちと行動が分離し始めた。

あの人を助けたい、あの人の側にいて慰めてあげたい、あの人を幸せな気分にさせてあげたい

今出来ない事ばかりがムネから沸いて出てくる。
「言っても言ってもできないことばかりじゃないか、結局君にはなにもできないじゃないか。」

したいことができないからか、行動が気持ちを無視し始めた。何に対する反逆か。

  1. 2009/05/27(水) 01:02:53|
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